課題小論文2
【インターネット社会の諸問題】
インターネット、ネットとは網のことで、それはさまざまなヒト、モノ、ジョウホウが網の目のように繋がることから名付けられた。その網は大きさと複雑さを一層増し、現代にあっては仕事も娯楽もその網、ネットなしには成り立たなくなるほどだ。
そしてネット接続にしても、少し前までは、仕事するならオフィスのパソコン、娯楽をするなら家に帰ってまたパソコンとどこかパソコンのある場所に行って接続するのが当たり前だった。しかし今ではパソコンを持ち歩き、カフェや公園でもネットに接続できる。しかもそれだけでなく、最近ではiphoneに代表されるスマートフォンの登場で、いつでもどこでもネットに接続できる。世界はそのままポケットに収まってしまう。
インターネットとパソコン、スマートフォンと言う関係は、日常生活で世界中に手が声が届いてしまうという夢のような環境を作り出した。持ち運びができるパソコンは、いつでもどこでも世界中に届く声の大きさで発言できてしまう拡声器みたいなものでもあるし、世界中の風景が見えてしまうスーパー望遠鏡や、地球の裏側から欲しいモノを取り寄せることができるマジックハンドみたいなものでもある。つまり、私たちの日常の目が手が声が届く範囲を信じられないくらい広げてくれたのである。そしてその規模やスピード、サービスの向上が日進月歩で進んでいる。
ではそんな急激な進歩をしていくインターネット社会の問題はどのように変化していくのかを考えてみるのだが、それらの問題はインターネットが生まれたときからあまり変わっていないように思われる。
問題はいつも人間としての倫理と、機器を有効、正確に扱う能力である。
声が大きくなったら何でも言ってよくなる訳ではない。むしろ声が大きいからこそ発言を考えるべきではないか。技術の進歩で、誰もが世界の裏側まで届く声で話せるようになった今、私たちには世界規模の倫理が求められているのではないか。そしてそれらの技術がビジネスや日常生活から切り離せなくなった以上、きちんと使いこなす能力が求められる。
どちらも新しい問題ではない。倫理は人間が生まれたときから求められてきたことであるし、インターネットを使いこなす能力、つまり情報を使いこなす能力も情報リテラシーとして今では小学校から教えられる。
私たちは、技術の進歩についていくのに精一杯でいつも当たり前に大事なことを忘れてしまっているのではないか。新しい技術が生まれたから、その反面として何か問題もあるだろう。しかし、そういった新しいものだけに囚われるだけでなく、このような急激に何かが変わっている時代だからこそ当たり前を見つめ直し熟慮することが必要なのではないだろうか。
社会へのインターネットの普及で、起きている問題は確かにある。匿名掲示板でのいじめ書き込みや、知的財産に関する諸問題などがそうであろう。しかし私にとって一番問題意識として駆り立てられるのは、そういった表面的な問題に目を奪われて本質的な問題を見逃してしまっている現代社会の問題意識のありかた、そのものだ。
インターネット、ネットとは網のことで、それはさまざまなヒト、モノ、ジョウホウが網の目のように繋がることから名付けられた。その網は大きさと複雑さを一層増し、現代にあっては仕事も娯楽もその網、ネットなしには成り立たなくなるほどだ。
そしてネット接続にしても、少し前までは、仕事するならオフィスのパソコン、娯楽をするなら家に帰ってまたパソコンとどこかパソコンのある場所に行って接続するのが当たり前だった。しかし今ではパソコンを持ち歩き、カフェや公園でもネットに接続できる。しかもそれだけでなく、最近ではiphoneに代表されるスマートフォンの登場で、いつでもどこでもネットに接続できる。世界はそのままポケットに収まってしまう。
インターネットとパソコン、スマートフォンと言う関係は、日常生活で世界中に手が声が届いてしまうという夢のような環境を作り出した。持ち運びができるパソコンは、いつでもどこでも世界中に届く声の大きさで発言できてしまう拡声器みたいなものでもあるし、世界中の風景が見えてしまうスーパー望遠鏡や、地球の裏側から欲しいモノを取り寄せることができるマジックハンドみたいなものでもある。つまり、私たちの日常の目が手が声が届く範囲を信じられないくらい広げてくれたのである。そしてその規模やスピード、サービスの向上が日進月歩で進んでいる。
ではそんな急激な進歩をしていくインターネット社会の問題はどのように変化していくのかを考えてみるのだが、それらの問題はインターネットが生まれたときからあまり変わっていないように思われる。
問題はいつも人間としての倫理と、機器を有効、正確に扱う能力である。
声が大きくなったら何でも言ってよくなる訳ではない。むしろ声が大きいからこそ発言を考えるべきではないか。技術の進歩で、誰もが世界の裏側まで届く声で話せるようになった今、私たちには世界規模の倫理が求められているのではないか。そしてそれらの技術がビジネスや日常生活から切り離せなくなった以上、きちんと使いこなす能力が求められる。
どちらも新しい問題ではない。倫理は人間が生まれたときから求められてきたことであるし、インターネットを使いこなす能力、つまり情報を使いこなす能力も情報リテラシーとして今では小学校から教えられる。
私たちは、技術の進歩についていくのに精一杯でいつも当たり前に大事なことを忘れてしまっているのではないか。新しい技術が生まれたから、その反面として何か問題もあるだろう。しかし、そういった新しいものだけに囚われるだけでなく、このような急激に何かが変わっている時代だからこそ当たり前を見つめ直し熟慮することが必要なのではないだろうか。
社会へのインターネットの普及で、起きている問題は確かにある。匿名掲示板でのいじめ書き込みや、知的財産に関する諸問題などがそうであろう。しかし私にとって一番問題意識として駆り立てられるのは、そういった表面的な問題に目を奪われて本質的な問題を見逃してしまっている現代社会の問題意識のありかた、そのものだ。
課題小論文1
【若者の政治参加】
若者はなぜ政治に参加しなくなったのだろうか。
日本においては、若者が日々の暮らしに満足しているからであるとか、自分の属する環境がどうなってくれようと構わないといって諦めているからではない。現在の政治構造とミドル世代に対する不信感がマイナスの意味でマッチしてしまったからであると思われる。
日本の政治構造は間接民主主義である。選挙によって代表者を選出し、その代表者に自分の意見を代弁してもらうという構造だ。しかしこの民主主義は、代弁者が誠実かつ意見を代弁してもらいたいと思わせるような魅力を兼ね備えていることを前提としているのではないか。そのような前提を踏まえて今一度政治家を見てみれば、あまりにその前提からかけ離れていることに気づく。そのような政治家の実態はマスコミや世評がつくり上げたある種虚像なのかもしれないが、多くの国民に取ってそれらの政治家について何かを知る手段はマスコミをはじめとした間接情報しかないのであり、特に政治家と直接の関係性を持つことのないほとんどの若者にとってはそれが全てなのである。だからこそ若者は、信頼できる他人に任せて自分の環境を変えようとするよりも、直接自分に関係してその身辺環境を変える力を持つお金や肩書きに強い興味を示し、その成功者としての経営者や有名人に強い興味関心を示す。
金融不安は始めとした数々の社会不安を目の当たりにしている若者にとって、自分の身辺環境を変えることに対して無関心であるはずが無い。今の大学生であれば、就職に対する危機的状況をなんとかして解決してもらいたいと願うはずである。若者は環境を変えることに関心が無い訳ではない、その手段としての政治に興味が無いだけである。だから若者は新しい構造さえ示してもらうことができれば政治に参加することも厭わない、どころか積極性すら示すと期待できる。
話は少し変わるが、イランの大統領選に伴う動乱が起きた時、若者をはじめとする多くのイランの人々がtwitterと呼ばれるインターネットサイトを使って発言、報道を行った。このtwitterというサイトは、自分専用の掲示板を持ち、そこに140字以内の「つぶやき」をどんどんと投稿できるというもので、イランの若者たちはここでどんな報道機関よりも早く正確な情報を流し続けた。イランに大使館を持たないアメリカはこのサイトを使って最新の情報を集めていたとも言われているほどだ。このような小さな「つぶやき」の集積は大きなうねりになり、世界中を巻き込んでイランの体制に疑問を投げかけるまでに至った。そこには最終的な政治的決定の機構がないことから、正確な意味では政治ではないかもしれないが、世論を集積して1つの意見を形成し、大きな動き見せたことはある種、政治活動として注目に値する。
ここで若者が感じたことは、自分たちの小さな「つぶやき」でも集積されることで大きな動きに繋がる、つまり政治を動かす、政治に参加しているという感覚だったかもしれない。私が注目したいのは、このような新しい政治参加の方法を作り出すことが若者を政治に参加させる1つの方法であるかもしれないということだ。今回のイランのケースで言えば、インターネットというテクノロジーが若者の政治への「直接感」を視覚化し感じさせてくれたことで若者は結果的に政治的活動に積極的に参加したといえる。
若者をどのように政治に参加させるかという問題は、昔から問題になってきた。しかし解決のためにとられてきたアプローチはどれも、既存の構造の中でどのように立ち振る舞うかということであったのだろう。今こそ私たちはその構造を飛び出し、新しいアプローチをすることで問題を解決できるのではないだろうか。
若者はなぜ政治に参加しなくなったのだろうか。
日本においては、若者が日々の暮らしに満足しているからであるとか、自分の属する環境がどうなってくれようと構わないといって諦めているからではない。現在の政治構造とミドル世代に対する不信感がマイナスの意味でマッチしてしまったからであると思われる。
日本の政治構造は間接民主主義である。選挙によって代表者を選出し、その代表者に自分の意見を代弁してもらうという構造だ。しかしこの民主主義は、代弁者が誠実かつ意見を代弁してもらいたいと思わせるような魅力を兼ね備えていることを前提としているのではないか。そのような前提を踏まえて今一度政治家を見てみれば、あまりにその前提からかけ離れていることに気づく。そのような政治家の実態はマスコミや世評がつくり上げたある種虚像なのかもしれないが、多くの国民に取ってそれらの政治家について何かを知る手段はマスコミをはじめとした間接情報しかないのであり、特に政治家と直接の関係性を持つことのないほとんどの若者にとってはそれが全てなのである。だからこそ若者は、信頼できる他人に任せて自分の環境を変えようとするよりも、直接自分に関係してその身辺環境を変える力を持つお金や肩書きに強い興味を示し、その成功者としての経営者や有名人に強い興味関心を示す。
金融不安は始めとした数々の社会不安を目の当たりにしている若者にとって、自分の身辺環境を変えることに対して無関心であるはずが無い。今の大学生であれば、就職に対する危機的状況をなんとかして解決してもらいたいと願うはずである。若者は環境を変えることに関心が無い訳ではない、その手段としての政治に興味が無いだけである。だから若者は新しい構造さえ示してもらうことができれば政治に参加することも厭わない、どころか積極性すら示すと期待できる。
話は少し変わるが、イランの大統領選に伴う動乱が起きた時、若者をはじめとする多くのイランの人々がtwitterと呼ばれるインターネットサイトを使って発言、報道を行った。このtwitterというサイトは、自分専用の掲示板を持ち、そこに140字以内の「つぶやき」をどんどんと投稿できるというもので、イランの若者たちはここでどんな報道機関よりも早く正確な情報を流し続けた。イランに大使館を持たないアメリカはこのサイトを使って最新の情報を集めていたとも言われているほどだ。このような小さな「つぶやき」の集積は大きなうねりになり、世界中を巻き込んでイランの体制に疑問を投げかけるまでに至った。そこには最終的な政治的決定の機構がないことから、正確な意味では政治ではないかもしれないが、世論を集積して1つの意見を形成し、大きな動き見せたことはある種、政治活動として注目に値する。
ここで若者が感じたことは、自分たちの小さな「つぶやき」でも集積されることで大きな動きに繋がる、つまり政治を動かす、政治に参加しているという感覚だったかもしれない。私が注目したいのは、このような新しい政治参加の方法を作り出すことが若者を政治に参加させる1つの方法であるかもしれないということだ。今回のイランのケースで言えば、インターネットというテクノロジーが若者の政治への「直接感」を視覚化し感じさせてくれたことで若者は結果的に政治的活動に積極的に参加したといえる。
若者をどのように政治に参加させるかという問題は、昔から問題になってきた。しかし解決のためにとられてきたアプローチはどれも、既存の構造の中でどのように立ち振る舞うかということであったのだろう。今こそ私たちはその構造を飛び出し、新しいアプローチをすることで問題を解決できるのではないだろうか。
確信犯
家庭教師をしてるんです
中学2年生の男子
「先生、今日は国語の表現技法を教えてください」
僕は某家庭教師派遣業者を介さない、フリーの家庭教師
だから、授業回数から授業内容、教え方、参考書まで何もかもスーフリ
生徒にとってはお金を払えばいつでもやってきて何でも好きなだけ質問できる良いシステムですが、僕にとっては椅子に座るまで何を聞かれるかわからないかなりスリリングな状況
それにしても、よりによって表現技法とは
それ受験に必要なかったもん
中高時代、受験勉強「しか」やってこなかった僕にとって有名な参考書に載っている事以外は圏外です
だから、偉そうに語れる「上野メソッド」なるものは全くありません
探り探りの授業の始まりです
それでも高い給料を頂く身(これはスーフリ家庭教師の特権、天引きなんかさせないぜ)
その対価に答えられるべく「楽しく質の高い授業」を展開します
相手は中学生の男子
それならあの「黄金」の単語を出しておけばイチコロじゃないか
倒置法
比喩法
対句法
反復法
擬人法
体言止め
その全てを僕は「黄金」の言葉で乗り切りました
もちろん学ぶ事に対してたくさんの笑顔を提供する「楽しく質の高い授業」でした
ただ一点心配なのは、隣の部屋にいたお母さんに聞かれていないかという事と、テストで例文を書けと問われたときに「○んこ」と書いてしまわないかという事
でも、お母さんだって人の子。学校の先生だって人の子
大人だから人には見せずとも、心内ではクスッと笑っているはず

◆編集後記◆
久しぶりに書いたブログがまさか下ネタになるとは
前回、前々回とキュンとくる文章を書いて繊細なロビンを演出しようと思ってたのに、これは失敗かな?
脇が甘かったかな?
でも女の子ってギャップに弱いんでしょ
雑誌によく書いてあるもん
だから今回はそのギャップを垣間見せたってことで良しとしよう
あと隙をチラッと見せる事も大事らしいね
頑張ってる人のふとした隙が女心をくすぐるらしい
特に年上女性の
これ大事!!
今回はそのギャップと隙を見せる高等技術です
これは本当は書いちゃダメなんだけど、僕は最近もてるからいいや
このブログを読んでいる全国の男子!!
明日からさっそくマネするんだ
中学2年生の男子
「先生、今日は国語の表現技法を教えてください」
僕は某家庭教師派遣業者を介さない、フリーの家庭教師
だから、授業回数から授業内容、教え方、参考書まで何もかもスーフリ
生徒にとってはお金を払えばいつでもやってきて何でも好きなだけ質問できる良いシステムですが、僕にとっては椅子に座るまで何を聞かれるかわからないかなりスリリングな状況
それにしても、よりによって表現技法とは
それ受験に必要なかったもん
中高時代、受験勉強「しか」やってこなかった僕にとって有名な参考書に載っている事以外は圏外です
だから、偉そうに語れる「上野メソッド」なるものは全くありません
探り探りの授業の始まりです
それでも高い給料を頂く身(これはスーフリ家庭教師の特権、天引きなんかさせないぜ)
その対価に答えられるべく「楽しく質の高い授業」を展開します
相手は中学生の男子
それならあの「黄金」の単語を出しておけばイチコロじゃないか
倒置法
比喩法
対句法
反復法
擬人法
体言止め
その全てを僕は「黄金」の言葉で乗り切りました
もちろん学ぶ事に対してたくさんの笑顔を提供する「楽しく質の高い授業」でした
ただ一点心配なのは、隣の部屋にいたお母さんに聞かれていないかという事と、テストで例文を書けと問われたときに「○んこ」と書いてしまわないかという事
でも、お母さんだって人の子。学校の先生だって人の子
大人だから人には見せずとも、心内ではクスッと笑っているはず

◆編集後記◆
久しぶりに書いたブログがまさか下ネタになるとは
前回、前々回とキュンとくる文章を書いて繊細なロビンを演出しようと思ってたのに、これは失敗かな?
脇が甘かったかな?
でも女の子ってギャップに弱いんでしょ
雑誌によく書いてあるもん
だから今回はそのギャップを垣間見せたってことで良しとしよう
あと隙をチラッと見せる事も大事らしいね
頑張ってる人のふとした隙が女心をくすぐるらしい
特に年上女性の
これ大事!!
今回はそのギャップと隙を見せる高等技術です
これは本当は書いちゃダメなんだけど、僕は最近もてるからいいや
このブログを読んでいる全国の男子!!
明日からさっそくマネするんだ
瞬熱
2007年の夏のことを思い出している。
ボクはシベリア鉄道の中にいた。ハバロフスクからウラジオストクへ。寝台列車で極東ロシアをさらに南へ向っていた。
走り出したころはまだ外も明るく、窓から見える景色はこれこそ広大と呼ぶに相応しい平野だった。その先の地平線を見れば地球が丸いんだということが実感できた。視界を遮るものは何一つ無くて、どこまで走っても同じ景色、飽きることはなかった。
横になると心地よい列車の揺れで、間もなく短い眠りに落ちた。
しばらくして目を覚ますと外はもう真っ暗で、しかし列車の揺れに変化はなく、いつまでも正しい、ガタンゴトンのリズム。隙間風に身を震わせ、ゴワゴワの毛布に包まったまま窓越しに空を見上げると、そこでは無限の空を取り合うように星達が輝いていた。また流れ星。星達は異国の空ではこんなに本当に楽しそうにしているのか。
その時ふと合点したことがあった。
日本でそんなこと言っても、カッコつけ、いやカッコすらつかないあのセリフ。当時、自分にはその言葉を送る相手はいなかったが、いつか大切な人ができたら言ってみたい、そう思った。
「あの星を君にあげよう」
自分の命に明確な足場など、用意しなくてもいいのかもしれない。
ほとばしる感動を求めて毎日燃えるように生きることが、この限られたチャンスを生かす最大の方法かもしれない。
当時はそんな事を思っていたんだっけ。
あれから約2年。たくさんの人に出会って、たくさんの経験をした。
その中に、いくつ本物の感動があっただろう。それは壮大なシチュエーションだけでなく、何気無い日常の中でも発見できていたはず。
毛布の中で、「あの星を、」と、いつかに備えて小声で練習をした。
窓の方に手を伸ばし、ぐっと掌を握った。もしかしたら一つくらい掴めるかもしれない。そう思ったのかもしれない。
手を顔の前に戻し、そっと開いた。掌は小さくキラキラと輝いた。
まさか星?と思ったけれど、よく見たらそれは掌の汗が煌いただけだった。
毛布で擦ったら、すぐに消えてしまった。
ボクはシベリア鉄道の中にいた。ハバロフスクからウラジオストクへ。寝台列車で極東ロシアをさらに南へ向っていた。
走り出したころはまだ外も明るく、窓から見える景色はこれこそ広大と呼ぶに相応しい平野だった。その先の地平線を見れば地球が丸いんだということが実感できた。視界を遮るものは何一つ無くて、どこまで走っても同じ景色、飽きることはなかった。
横になると心地よい列車の揺れで、間もなく短い眠りに落ちた。
しばらくして目を覚ますと外はもう真っ暗で、しかし列車の揺れに変化はなく、いつまでも正しい、ガタンゴトンのリズム。隙間風に身を震わせ、ゴワゴワの毛布に包まったまま窓越しに空を見上げると、そこでは無限の空を取り合うように星達が輝いていた。また流れ星。星達は異国の空ではこんなに本当に楽しそうにしているのか。
その時ふと合点したことがあった。
日本でそんなこと言っても、カッコつけ、いやカッコすらつかないあのセリフ。当時、自分にはその言葉を送る相手はいなかったが、いつか大切な人ができたら言ってみたい、そう思った。
「あの星を君にあげよう」
自分の命に明確な足場など、用意しなくてもいいのかもしれない。
ほとばしる感動を求めて毎日燃えるように生きることが、この限られたチャンスを生かす最大の方法かもしれない。
当時はそんな事を思っていたんだっけ。
あれから約2年。たくさんの人に出会って、たくさんの経験をした。
その中に、いくつ本物の感動があっただろう。それは壮大なシチュエーションだけでなく、何気無い日常の中でも発見できていたはず。
毛布の中で、「あの星を、」と、いつかに備えて小声で練習をした。
窓の方に手を伸ばし、ぐっと掌を握った。もしかしたら一つくらい掴めるかもしれない。そう思ったのかもしれない。
手を顔の前に戻し、そっと開いた。掌は小さくキラキラと輝いた。
まさか星?と思ったけれど、よく見たらそれは掌の汗が煌いただけだった。
毛布で擦ったら、すぐに消えてしまった。
カエル少女
幼少の頃、突然の雨に傘を持たない私は全く対処できず、雨に打たれて当然のようにびしょ濡れになった。家に帰った私を見るなり心配した母は私にシャワーを浴びさせ、「何で雨宿りしなかったの。」と問い詰めた。
幼かった私は素直に、気持ちよかったから、と答えたが母は腑に落ちない様子だった。あの時ほど簡潔正確に答えられたことはないと思う。
以来私は雨が好きになった。
小学校の頃、座ったらおしりが緑に染まりそうなほど野草の生い茂った公園でよく遊んでいた。気が付くと私の回りには綺麗な黄緑色をした小さな雨蛙がいた。
体をこちらに向け私を目指しているかのように何匹も。私は躊躇うことなく捕まえるけれど、友達は口を揃えて信じられないと言う。おとなしい雨蛙はとても軽くかわいく、溶けてしまいそうなくらいふにゃふにゃだ。
授業中は、湿気を含んだことでいつもより柔らかく感じる腰掛けに座り、数学の講義をBGMに少しずつ雨に浸食されていく運動場を眺めているのはとても気持ちがよかった。
誰もいない渡り廊下は深呼吸するとその場で私のものになる。いつもより濃厚な風の流れも手伝って自然を強く感じられる。
その後も雨はゆっくりしっかり私の中でその存在を重ねていった。
高校生になった私には初めての彼氏ができた。彼はとても優しい男だった。
私はいつも天気予報を見ずに家を出るため、雨の日にはよく相合い傘をした。彼は自分が濡れるのを覚悟で私をしっかりと傘で守ってくれた。もどかしかった私は何度も「傘なんか閉じて濡れて帰ろうよ」と言いたかったけど、いろんな誤解をされそうで純情を気取る私は何も言えなかった。
大学生になり生活と彼氏を新調した。
彼は小雨の降る窓の外を眺めながらポカンと口を開けている。
雨粒の間に何が見えているのだろう?
私は懐かしい公園で捕まえた雨蛙の重さを思い出し、再現するように手をそっと彼氏の手を握ってみる。
うまくできれば今の私はとっても小さくて軽いけれど、どうしようもないくらい柔らかくてかわいいはずだ。
幼かった私は素直に、気持ちよかったから、と答えたが母は腑に落ちない様子だった。あの時ほど簡潔正確に答えられたことはないと思う。
以来私は雨が好きになった。
小学校の頃、座ったらおしりが緑に染まりそうなほど野草の生い茂った公園でよく遊んでいた。気が付くと私の回りには綺麗な黄緑色をした小さな雨蛙がいた。
体をこちらに向け私を目指しているかのように何匹も。私は躊躇うことなく捕まえるけれど、友達は口を揃えて信じられないと言う。おとなしい雨蛙はとても軽くかわいく、溶けてしまいそうなくらいふにゃふにゃだ。
授業中は、湿気を含んだことでいつもより柔らかく感じる腰掛けに座り、数学の講義をBGMに少しずつ雨に浸食されていく運動場を眺めているのはとても気持ちがよかった。
誰もいない渡り廊下は深呼吸するとその場で私のものになる。いつもより濃厚な風の流れも手伝って自然を強く感じられる。
その後も雨はゆっくりしっかり私の中でその存在を重ねていった。
高校生になった私には初めての彼氏ができた。彼はとても優しい男だった。
私はいつも天気予報を見ずに家を出るため、雨の日にはよく相合い傘をした。彼は自分が濡れるのを覚悟で私をしっかりと傘で守ってくれた。もどかしかった私は何度も「傘なんか閉じて濡れて帰ろうよ」と言いたかったけど、いろんな誤解をされそうで純情を気取る私は何も言えなかった。
大学生になり生活と彼氏を新調した。
彼は小雨の降る窓の外を眺めながらポカンと口を開けている。
雨粒の間に何が見えているのだろう?
私は懐かしい公園で捕まえた雨蛙の重さを思い出し、再現するように手をそっと彼氏の手を握ってみる。
うまくできれば今の私はとっても小さくて軽いけれど、どうしようもないくらい柔らかくてかわいいはずだ。





